安慶名城(あげなぐすく、あげなじょう)は、沖縄県うるま市安慶名にあったグスク(城)の城趾です。現在は城壁だけ残っています。うるま市には海中道路や勝連城跡などの有名な観光スポットが多いですが、安慶名城の周辺エリアには具志川グスク、兼箇段グスク、喜屋武グスクなどグスクが多い場所となります。
自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した堅牢な山城で、連郭式縄張りの城が多い沖縄のグスクの中では珍しく輪郭式のグスクです。縄張りというのは城の設計、連郭式というのはお城の曲輪配置のことで本丸と二の丸、三の丸を連なるようにして並べて配置したものです。安慶名城のように輪郭式のグスクは外側から内側に向かって三の丸、二の丸を本丸を囲むようにした配置のことです。連郭式と輪郭式だと大事な本丸を最も内側に置いた輪郭式のほうが四方への防御に優れています。
現在は安慶名中央公園になっており、外側から見ると鬱蒼とした森に見えます。安慶名公園には、古代ローマの円形球技場のような安慶名闘牛場が設置されており、時々闘牛が開催されるようです。主郭はあまり手を入れられていないため、無骨ながらも見ごたえのある城址となっています。
安慶名城の周辺エリアには具志川グスク、喜屋武グスクがあると先述しましたが、かつて安慶名城は15世紀(三山時代)から16世紀にかけて沖縄本島中部一帯を三世代にわたり支配した安慶名大川按司の拠点でした。沖縄の歴史では尚氏が有名ですが、かつて尚氏をもしのぐ勢力であったといわれています。
安慶名城の建設自体は1360年頃には既に行われたとされていますが、1453年に今帰仁王子の五男である安慶名大川按司一世によって安慶名城は改築城されました。安慶名大川按司一世は息子たちを具志川、喜屋武、天願、屋良にグスクを築き、城主として住まわせたと伝えられています。当初兼箇段にグスクを築こうとしていたのですが、途中でやめて安慶名の丘に立てたといわれています。
なお、1526年の大川按司三世の時に中山第二尚氏の尚真王に討たれます。当時尚真王は那覇に中央集権国家を築こうとしており、具志川あるいは中部一帯を治めていた大川按司三世にも加わるように促しましたが、大川氏はそれに従いませんでした。そのため尚氏は大川氏を攻めに行くのですが、自然の要塞であり周りを水量の多い天願川に囲まれているためなかなか落城が難しかったといわれています。結局安慶名城内に水がないということを知った尚氏によって兵糧攻め、水攻めに遭い、落城をしてしまいます。